「河野談話」「村山談話」といえば、戦時中の慰安婦や植民地政策に関する「お詫び」の表明で、いわゆる自虐史観・スタンスの代表例とされるものです。
これらの談話が近隣諸国との関係改善に寄与したかと言えば、全く無意味どころか、条約の内容をも超えたさらなる謝罪や賠償を求められたり、国内の憤りはやがて他の鬱憤とも合体して排外ヘイトになったりと、悪い作用しか無かったと私は思っています。
一方、大東亜戦争終結時(=原爆投下時)のアメリカ大統領だったハリー・S・トルーマンは、原爆投下について次のように語っています(日本語訳はDeepLによるもの)。
We have used it in order to shorten the agony of warren order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.
何千、何万という若いアメリカ人の命を救うために、私たちは戦場の苦しみを短縮するためにそれを使ってきた。
これは現在に至るまで、多くのアメリカ人の原爆に対するスタンスの「テンプレート」になっていると言えるでしょう。
もちろんこのトルーマンの言葉は欺瞞であり、既に降伏寸前だった日本の、一般市民が暮らす市街地のど真ん中に核兵器を2発も投下するなど、世界に向けたパフォーマンスと人体実験を兼ねた虐殺でしかありません。
自国に対するスタンスは真逆ですが、河野・村山談話も、トルーマンの原爆に対する談話も、それを「理性的な態度」のつもりで踏襲し口にする人は、思考停止以外の何物でもないと思います。
私個人の感覚では、米国内にも「原爆投下は必要なかった」という認識が正しく広がってほしいと思う一方、それを以て謝罪や賠償を求めるといった気持ちはそれほどありません。
一方、自国の独立への意識を微塵ももたず、米国の核の傘で護ってもらう事を「安全保障」などと言いのける政治家には、米国側の欺瞞よりはるかに大きな怒りを感じずにはいられません。
11/2開催のゴー宣DOJO in広島「原爆の悲惨さはなぜ伝わらないのか?」は、「80年前の事」ではなく「いま現在の事」を話す場になると思います!